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夏の北風 三話



三話 思い描く都会

 カレーができた。とは言ってもそれは、そこらのスーパーにあって見覚えのある
レトルトカレーとパックのライスなのだが、男独りだったはずの野宿に紛れ込んで
食べるなんて十五歳の千早にはめくるめく体験だった。屋外でのバーベキューは
知っていても、それは家族だったり学校の行事で大勢で囲むもの。ときめきの対象
と二人きり。しかも解放されていながら人目のない屋外で、都会的なキャンプ用の
プラスチックの器で食べるカレーは生まれてはじめて。
 千早は、いまこのときにときめいていた。見ず知らずの土地にたった独りでやっ
て来て、漆黒の闇の中で岩礁に砕ける波濤をものともせずに独りで眠る。もしも私
なら怖くてとてもできないだろう。そう思うと、瀬田という男が逞しく思えてならない
のだ。プロ野球の世界に生きてきたこと自体が強くなければできないこと。千早に
とって瀬田はまさに憧れの存在だった。

 千早は明るい。カレーをがつがつほおばった。
「美味そうに喰うな?」
「だってすごく美味しいもん。なんか夢みたい」
「そうか? それを言うなら俺だってそうだ、覆っていた雲が見事に消えた気分だ
ね」
「そうなの? ほんとに?」
「ああ、ほんとだ。俺はいったい何をやっていたんだろって笑えるぐらい、我ながら
みっともない・・」
 千早はそうじゃないよと言うように、わずかに首を振って、ちょっと笑った。
 そのときだけ妙に大人びて、ふ・・と笑う。そんな雰囲気のある少女の笑顔。瀬
田は内心首を傾げた。
「どした?」
「ううん、いいの。ねえ瀬田さんて、いくつ?」
「二十七だよ」
 それでしばらく沈黙。カレーの残りを一気にほおばる千早。後一口で食べ終わ
るというときになって、視線を外して千早は言った。食べ終わって口を閉じてしま
うと言えなくなりそう。
「ねえ瀬田さんて・・」
「うむ?」
 奥さんとか彼女とか・・言いかけてハッとした千早。千早は頭のいい娘。
「野球はいつからはじめたの?」
 話題をスムーズに切り替えた。

 瀬田は眼下の海をちょっと見渡し、含み笑って言う。
「リトルリーグからだよ。小5の頃からずっとね」
「小5・・あたしなんてダメだなぁ」
「ダメとは? どういうことだ?」
「ほら、あたしって中三でしょ。進学のことでちょっと」
「ちょっととは?」
「いいの」
 千早は曖昧に笑うだけで応えなかった。
「そっか。訊かないことにしよう。ところで千早ちゃんは、さっきのお爺ちゃんと一
緒に暮らしてるんだね? ご両親ともども一緒に?」
「ううん一緒じゃないよ。あたしは、ここから四キロほど戻ったところにある小さな
街に親と一緒にいるんだぁ。毎週じゃないけど自転車でね」
「お爺ちゃんお婆ちゃんの様子を見に?」
「お婆ちゃんはいない。二年前に。それでお爺ちゃんは独りになった。母さんは
街に呼びたがってるんだけど、お爺ちゃんは嫌だって。網元を継いでるからさ」
「網元を継ぐ?」
「うん。それは八年前かな。前の網元さんが八十六で倒れたときに網子頭(あみ
こがしら)だったお爺ちゃんを枕元に呼んだらしい。下で働く人を網子って言うんだ
けどね」
「うむ、そうか網子ね」
「うん網子。それでそのとき、村を託せるのはおまえだけだ、頼むって。それで網
元さんは亡くなって、家に残されたお婆ちゃんは金沢にいる息子さんに引き取られ
て行ってしまった。そんなことでいまの家を明け渡されて、船もそのまま引き受けて、
その頃にはあたしのお婆ちゃんも元気だったし。お爺ちゃんね、わしがいなくなった
ら村は終わるって言って、それからずっと頑張ってるの。肺を患って自分では漁に
出られないのに」
「いまは、おいくつなんだい?」
「七十二かな? 三だっけ? そのぐらい」

 そういうことかと瀬田は感じた。進学で遠くに行けば来づらくなってしまうからだ。
「村にはお年寄りばかりなのかい?」
「うーん、いっちゃん若くて源さんが六十九かな。上は九十歳を超えてるよ。だから
漁と言っても小さな船で湾の中だけ。岸からちょっとのところで細々とやってるの。
それでもここらは海が豊かで、そこそこ水揚げがあるからいいけれど」
「そうか、厳しい暮らしなんだろうな」
「厳しいよ。雀の涙ほどの年金もらって足りない分を漁で補う。ここから少し先に、
それは小さな港とは言えない船着き場があってね、買い付けの船がそこへ来るん
だ。たくさん獲れるときもあるけど、海が荒れれば出られないし、雑魚ばっかってと
きもあるでしょ。村はもうおしまいだって、さすがにこの頃お爺ちゃんも言ってるん
だ。さっき言った常爺さんもいなくなり、年寄りをほっとけないって家族の人たちが
うるさく言ってるそうなんだ。母さんだって、あたしをよこすのはそのためで、お爺ち
ゃんを引き取りたいって思ってる」
「お母さんも来るんだろ?」
「もちろんよ、あたしよりしょっちゅう来てる。母さんはクルマですぐだし、ご飯のお
かずを作っては運んであげてる。あたしはお爺ちゃんが大好きだから週末になると
自転車でね」

 カレーを食べ終わり、湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れてやる。ジュース
なんて用意してない。
 ホーロー引きのスチールカップを手渡しながら、気丈な面色でカップを受け取る
千早を見ている。瀬田はますます恥ずかしい。もがいていたことがひどく小さなこと
のように思えてくる。通過するだけではなく、人の生き様というものをつぶさに見て
みたいと瀬田は思った。
 と、手の中のカップを見つめながら千早は言った。
「ねえ瀬田さん」
「お?」
「よければなんだけど・・メールとかしていい? いつか横浜に戻るんでしょ?」
「そんなこと訊くまでもない、大歓迎だよ」
「うん、ありがと。あのね、あたし金沢に行くか東京に出るかで悩んでるんだ」
「進学で?」
「そうよ、もちろん。さっきも言った前の網元さんの一家が金沢にいて、あたしを
預かるって言ってくれてる。これからの子は都会の方がいいだろうって。ほら網元を
押しつけるみたいになってるから心苦しいんだと思うんだ。もう一つは、小学校の頃
の大親友だった女の子が家の都合で八王子に引っ越したんだよ、東京の八王子」
「うむ、なるほど、それで?」
「でね、そっちは私立の高校大学一貫校で上に行くならいいだろうって。その子の
ママとあたしの母さんが大の仲良しでね、やっぱり預かるからおいでって。友だちも
あたしと離れて寂しがってるからって言うんだ。その子ね、離れてからもたまーに遊
びに来たりしてる。ママ同士が仲良しだから。ここらの地元に全寮制の高校もあるん
だけど、どのみち親元を離れるなら一緒でしょ」
「まあ、それはそうかもだが、お父さんやお母さんは何て言ってる?」
 言いながら横顔を覗き見ると、千早はどきりとするほど大人の顔立ちになってい
た。意思の強い、それでいて決めかねる迷いが面色に出ているようでもあり。
「よく考えて自分で決めろって言う。お爺ちゃんのことは任せとけって母さん言うん
だけど、それとこれは話が違うよ。金沢でも遠いのに東京なんて地球のあっちなん
だしさ」
「なるほど、地球のあっちね・・ふふふ」

 面白い言い方をされて笑うと、千早もちょっと笑って横目を向けた。
 瀬田は言った。
「でもね、それって逆にお爺ちゃんに辛い思いをさせることかもしれないぜ」
 千早は顔を上げて丸い眸をまっすぐ向ける。そうかな、やっぱり・・といった面色
で。
「離れていたって会えなくなるわけじゃない。可愛い孫なんだから思うままにさせて
やりたい。そんなもんじゃないのかな」
 千早ももちろんそのへんはわかっていて、わずかにこくりとうなずいた。
 しかし、このとき千早は、話すほどに寂しくなっていく心の動きに戸惑っていた。
ときめきの相手は二十七歳、私はまだ中学生。それに相手は別世界の人。思春期
の少女にとっては感情が乱れるだけで処理できない。
 瀬田は言った。
「まあ、しばらくいるから、そう一気に話さなくても」
「ほんと? しばらくいる?」
「いる」
 嬉しそうに笑う千早だったが、どうしても訊いてみたいことがある。
「ねえ瀬田さん」
「はいよ?」
「戦力外ってどういうこと?」
 瀬田は苦笑する。
 しかし苦笑してみて、あたらめて感じることがある。ついさっきまでの負の感情が
ひどく薄まり、現実に立ち向かおうとする気分に変わってきている。
 瀬田は言った。

「大卒ルーキーだったんだ」
「うん?」
「ルーキーから二年はよかったんだが、肘を壊してしまってね」
「・・うん」
「ピッチャーにとっては致命傷だよ。手術して懸命にリハビリもし、少しは投げられ
るようになったんだが、以前のような球速が戻ってこない。肘が弱った分、肩や手
首に負担がかかる。腰もそうだが」
「・・うん」
「そうするうちに今度は肩の筋肉の部分断裂、そのほかいろいろボロボロになって
しまった。で、ついにクビってことさ。戦力外通告と言ってね、来季は構想に入って
ませんからと突きつけられる」
「厳しいんだね」
「いやいや、そうでもなかったよ。じつに三年、使い物にならない投手に猶予をくれ
た。それからだって球団職員にならないかって誘ってくれたし。だけどもう野球の
世界にはいたくない。小学生から夢見た世界に一度はいられた。もういい切り替え
よう。そう思って旅に出たんだ」
「・・うん」
 訊くべきじゃなかった。十五歳なりにしまったという思いがあって、千早の声がど
んどん小さくなっていく。
 瀬田は背伸びをしながら岩のコブを立ち、海を見渡しながら言った。
「振り切れた」
「えっえっ?」
「振り切れたんだ。ここに来てよかったって思う。さっきのほら、おばさん?」
「ああ、うん、瑠美のおばさん。おばさんて言うとぶっ飛ばされちゃうんだけど」
 瀬田は振り向きながら笑い、そうすると千早にも笑顔が戻ってチェアから立ち上
がる。千早は百六十センチ弱。瀬田を見上げるようになる。

 瀬田は言った。
「まあいい、こんな話はもうよそう。ところで千早ちゃんの夢は?」
「へっ!」 と吐き捨てて、おどけたような妙な貌をする少女。
「だからさっき言ったじゃん、あたしなんてダメだって。美術部で絵をやってるけど
下手だし、お爺ちゃんと一緒にいて、将来は介護とか、そっちをやってみたいって
思うんだけど、どれもこれもがきっぱりしたものじゃない。瑠美おばさんはカメラや
ってて、やる気があるならそのうち教えるって言ってくれてるけど、どうせ才能ない
んだし。瀬田さんの話聞いてて、やっぱ小さい頃から決めてないとダメなんだなっ
て思っちゃった」
 瀬田は千早の背中を大きな手でぽんと叩いて、ハッとして見つめる少女の眸に
微笑む視線を合わせて言った。
「小さな頃に決め過ぎるからこうなるんだ。そんな俺を救ってくれたのは君じゃな
いか。ダメなもんか、しっかりせいっ!」
 千早は笑った。嬉しかった。千早の周囲にこういうことで話し合える相手がいな
い。逞しい瀬田が兄のように思えてならない千早だった。

「あーあ、つまんないなぁ」
「は? 何が?」
「夏休みならよかったのにって思っちゃう。あたし週末しか来られないし、瀬田さん
だって、そんなにいられないと思うから」
 七月の初旬。夏休みまでは、まだ少し時間があった。
 一週間ほど留まろうと考えていた瀬田だったが、であるなら一度戻ろうかとも思
い直す。行方不明にしておくこと自体が卑怯者。身辺整理が先だと、このとき瀬田
は奮い立つ思いがした。
「うむ・・まあそうだな」
「えっ何が?」
「よし一度帰ろう。向こうでいろいろあるからね。で月末前に戻って来る。夏休み
の間、よろしく頼むよ」
「ほんと? ねえ、ほんとに戻って来る?」
「ああ約束だ」

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