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夏の北風 二八話



二八話 岩礁の記憶

「斉藤香津美(さいとう・かつみ)、四十六歳・・甲府の出で東京在住か・・」

 そのとき瀬田は、奥秩父のキャンプに参加するための申込書のファイルを見直
していた。その日は平日で朝から土砂降り。ゴールデンウィークで遊びすぎたから
でもないだろうが瀬田のショップは閑散としていた。ショップどころか道を歩く者も
まばらな昼下がり。風も強くて大荒れの一日になりそうだった。
 奥秩父のキャンプから十日ほどが過ぎていた。瀬田にとって斉藤香津美という
名は記憶に薄い。開店から数日した休日にショップを覗きイベントに申し込んだこ
とになっていたが、そのとき担当したのは西浦だった。開店直後でてんやわんや。
その頃は瀬田さえも手探りだったし、山田も西浦もバイトというより手伝っていたと
いうレベルだったので、こういうことの整理がなされていない。
 しかしこのとき斉藤を思い出してリストをチェックしていたわけではなかった。しっ
かりした店員は必要なのか。デパートを辞めた恵子を迎えるからにはバイト感覚
ではすまされない。やはり必要。そのことをあらためて確認しておきたくて見はじめ
たリストだったのだが、そこで斉藤が目に止まる。登山者としての野営経験、年齢
的にも落ち着いていて、しかも人の扱いが巧み。グループを組んで挑むハードな
登山では協調性がないと命にかかわる。彼はそこを心得ている。クラブに欲しい
人材だと考えた。

 来週なかば、平日の二日間で、ショップの休日に一日足して能登へ行こうとプ
ランを練ったが、瑠美は急ぎの仕事で動けなく、西浦は家の都合でダメ、山田は
大学の都合で動けない。高校生の麻紗美は誘えない・・ということで一人で行くか
と考えたのだが、タイミングよく恵子がそこを空けられると言う。デパートには退職
届を出してあり、消化できなかった有給休暇が三日ほど残っていたということだ。
 ショップの店員になる恵子には、能登のあの景色を一度は見せておきたかった。
常爺さんの家の暮らしも知っておいてほしい。そこに瀬田宿の原点があるからだ。
瀬田宿に欠かせない人材だと思うから、瀬田宿の根を共有しておいてほしかった。
 千早の眠る墓所は、祖父が住む高倉の家に近いらしい。地図は瑠美からメー
ルで送られて来ていた。高倉の家から道なりに街側へ少し戻った、七尾北湾を見
渡す丘の上にあるという。千早と出会って奮い立ったことが瀬田宿の原点。お墓
へ参り、しかしきっぱり別れを言う。いつまでも引きずっていては千早は悲しむだ
けと考えた。

 そして能登行きの前夜、午後七時。ショップを閉める時刻になって恵子が覗い
た。ジーンズにTシャツ、ジャケット、スニーカー。髪も少しのびていて、出会ってか
らしばらくの間に恵子は若返っていくようだ。
 人生をリセットした、それが恵子の素の姿。恵子はしなやかでやさしい女性。
 恵子はパジェロでやって来て、瀬田のジムニーに乗り換えた。ジムニーでロン
グランはキツイのだが、それも能登と出会ったあのときのまま、俺らしい姿のまま
で千早に会いたいと思ったから。恵子のパジェロをデリカワゴンの横に停め、お
んぼろジムニーを引きずり出して乗り込んだ。恵子は瀬田宿に来てから自分の
パジェロ以外のクルマははじめて。瀬田のドライブでスタート。助手席にいて気持
ちが弾んでたまらない。
 横浜から東名高速、新東名、東海北陸道を経由して能登へと入る、およそ八百
キロのロングラン、しかも真夜中。これほどの長距離は恵子にすればはじめてだ
った。乗り込んでしばらくは奥秩父のキャンプの話、瑠美と西浦のロマンスと口も
軽かったのだが、急ぐ旅ではないとは言え距離を思うとそうのんびり走っていられ
ない。クルマが小さくパワーのないジムニーではなおさらで、走り出して二百キロ
で疲れがくる。PAでドライバーチェンジ。

 瀬田の体温が残るハンドルを握って恵子が言った。
「このクルマで旅したんですよね、これはちょっと・・」
 高速ランではとりわけうるさく、普通車にくらべて安定性にも不安あり。
 瀬田は苦笑して言った。
「あのときは行くあてのない旅だったし、テントに疲れたらホテルって感じだった
からそうでもなかったんだが、キツイよな、やっぱ」
「能登へもふらりと?」
「ふらりもいいとこ。上越ジャンクションから北陸道を走ってて、そのまま福井か
どっかと考えて、標識を見て何となく曲がったんだ。能登か・・さぞ綺麗だろうなっ
て感じでね」
「原点ですものね瀬田宿の」
「それは言える。千早と爺ちゃん、次に瑠美さんと出会ってね。そのとき吹上浜
と呼ばれる場所にテントを張ったんだが、崖の上で眼下に海。ここだと風が出る
と危険と言われ、だったら常爺さんの家はどうかと言われた。爺さんが亡くなって
空き家になってる。そのうち取り壊されると聞かされた。廃材を薪にするために
だよ」
 恵子は含み笑って言う。
「そしていよいよ五右衛門風呂ね?」
「そうそう、あれには参ったよ。チィの奴が説明せずに帰ってしまい、さてどうした
ものか。風呂もそうだがコーヒー一杯、カマドの湯だぜ。バーナーで沸かせばよ
かったんだが、せっかくここにいてインスタントじゃ意味がないと考えた。火起こ
しは知識として知っていたからできると思ったんだが、とんでもなかった。九十過
ぎの爺さんが独りでよくも厳しい暮らしをと思ったときに、生きるってこういうこと
なんだと痛感した」
 と言ったきり口をつぐんで物思うような気配。記憶をたどり千早の面影を呼び
起こしているのだろうと、恵子はそれ以上を訊こうとせず運転に集中した。

 東海北陸道、ひるがの高原サービスエリアで休憩。夜通し開いているコンビニ
で夜食を買ってクルマに持ち込む。そして仮眠。狭い車内、リアシートは倒して
あって荷物が積まれ、前席はリクライニングしきれない。平日の深夜ということで
トラックスペースには大型車がちらほらいたが乗用車のスペースはガラ空きだっ
た。
「少し寝た方がいい」
「・・うん・・そうね」
 瀬田と二人きりの一夜と思うだけで恵子は胸がいっぱいだった。助手席にい
て横を見ると、薄闇の中に男の大きな体が胸を静かに膨らませては息をする。
瀬田ももちろん寝入ってはいなかった。
「パジェロにしとけばよかった・・狭すぎだ・・」
 かすかな息の声。恵子は笑った。
「ですね、これはちょっと・・でも楽しい」
「そうかぁ?」
「車中泊はしないの?」
「仮眠程度かな。俺のサイズじゃムリだって」
 可笑しい。恵子は疲れを感じなかったし、むしろ目が冴えて眠れない。
「眠れるわけないよなぁ」
「そうですね、たぶんムリそう」
「じゃあ言っとく、ショップのことだが」
 瀬田は助手席へと顔を向けた。
「あ、はい?」
 恵子は胸がキュンとする。良くない話になるのではと怖かった。
「ショップそれに瀬田宿もそうなんだが一緒にやっていこうな。恵ちゃんがいてく
れないともうムリだ」
 体が熱を放つほど恵子は嬉しい。瀬田はそう言ったきり静かになって動かな
い。恵子は微笑みながら眸を閉じた。夢見心地が浅い眠りを連れて来た。

 能登に着く。時刻は朝八時を過ぎていた。横浜を発ってから時計が一回りする
ことになる。瑠美の実家でもある千早の祖父、高倉の家へと向かう。千早の墓所
はわかっていたから高倉の家に寄ろうかと迷ったのだが、ひとまず先に祖父を訪
ねてみる。ところが老爺は留守だった。来た道を少し戻って墓所へと向かう。
 千早は宮本家の一人娘。高倉の家から宮本一家が暮らす街の側へと少し戻っ
たところに千早の眠る墓所はあったのだが、その同じ墓地に高倉家の墓もある。
リアス式で崖が続く地形だから墓所をつくる場所も限られるということか。
 道沿いの右手、山の側に拓けた空き地があって駐車でき、そこから延びる小
道を歩いて行くと、なだらかな傾斜に沿って古い墓石がいくつも並ぶ墓地に出る。
すっきり晴れた丘の上。振り向くと七尾北湾、そして能登島が一望できた。紺碧
の海が煌めいている。
「わぁぁ、なんて景色なのかしら・・綺麗ねぇ・・」
 恵子は眸を細めて見とれていた。梅雨入り前の好天は夏の陽射し。時刻が早
く、海から南風が上がってきていて爽やかだった。まさしく絶景。能登の景色に
抱かれて眠れる千早は幸せだと思えるほど。ごみごみした都会の墓地とは雲泥
の差があった。

 宮本家の墓・・墓石はどの墓も小さくて、しかし宮本家の墓は石そのものが新
しかった。千早の死があって新しくしたものだろうと瀬田は思う。お墓の周り、そし
て花や線香やロウソクも綺麗に片付けられている。老爺も母親も通っているに違
いなかった。
 お花と線香、それにロウソクを新たに飾り、小さな墓石の前にしゃがむ瀬田。
 そのとき恵子は一歩下がってしゃがみ込み、瀬田の大きな背中を見つめてい
た。恋人気取りで横に並べば千早はきっと喜ばないと思ったからだし、千早に向
き合う瀬田を見守っていたいと思う気持ちが強かった。
 瀬田は手を合わせて墓石を見上げ、何も語らず、心の中で話しかける。

(千早、遅くなってごめんね・・君のおかげで、このとおり立ち直れたよ、ありがと
う。口惜しいよ千早・・残念だよ千早・・会いたかったよ千早。今日は瀬田宿の仲
間で、ショップを手伝ってくれることになった恵子さんを連れて来た。俺と一緒に
仲間ともども見守っていてくれな。俺は負けない。千早に恥じない生き方で突き
進む。愛していたよ千早・・口惜しいよ・・口惜しい・・。だけどね、千早のことは
胸に留めて振り切ろうと思ってる。そうじゃないとおまえは悲しむ・・きっと悲しむ。
だから言う、さようなら千早・・ありがとう千早・・さようなら)

『そうそう、それでいいもん、来てくれてありがとねっ』

 千早の声を聞いた気がした。終始無言の瀬田だったが、その肩が小刻みに
震えている。恵子は涙があふれて止められない。瀬田の肩に後ろからそっと手
を置いて、そうするとこらえていた男泣きの嗚咽が漏れだした。
 同じ女として、そこまで想われれば嬉しいし本望だろうと恵子は思う。
 振り切るように立ち上がり、振り向いた瀬田は、流れる涙を拭おうともしなかっ
た。そんな瀬田の姿がとてつもなくやさしく思え、恵子は静かに泣いて瀬田の胸
へと寄り添った。
 ふわりとしたやさしい抱擁・・私をチィちゃんだと思って抱いて・・恵子はそう念
じつつ、瀬田の胸で泣いていた。
「よしっ、行くかっ! 湿っぽいのはおしまいだ!」
「うん・・おしまいよね・・うん・・悲しいよね・・」
 向き合っていて見つめ合い、瀬田はうなずきながら、ん・・ん・・と喉の奥で涙
を噛んで、半袖のポロシャツの両方の袖で涙を拭い、向こう向きに恵子を振り向
かせて肩をガツンと抱いて、千早の墓に背を向けた。
 クルマに乗り込み、ふたたび高倉の家を訪ねたのだが、老爺は家を空けたま
ま。常爺さんの家に行くにしても一言言ってからでないと図々しい。メモを残して
クルマに乗り込む。

 それから瀬田は思い立ち、あのとき千早と行った岩場の海へとクルマを走らす。
釣りをした、あの場所へ。
 湾の中の、そのまた小さな湾だから少しぐらいの風なら問題ないと考えた。老
爺の家から一時間ほど。最後の最後に岩場を通る難所がある。四駆のLOWへ
シフトして、恵子の体が右へ左へ天井へと揺さぶられる。
「わぁぁすごいぃ、これって道じゃないもん、笑えちゃう! あははは!」
「つかまってろよ、吹っ飛ばされるぞ」
 大型のパジェロでは逆に辛い。スキーで走る雪道とは次元が違う。一緒になっ
て揺さぶられ、明るく笑う瀬田がますます逞しく思えてくる。
 ゴツゴツした難所を越えて、少しだけある土の丘に立つ。
 千早と釣り竿を眺めていた記憶の場所は、あのときのまま変化なし。平日で
もあり人の気配はまるでない。足下に迫るような波と透き通った海。ここは深い。
足下から落ち込んで青から黒へと変わっていく。しかし風はそれほどでもなく波も
静か。透き通った海を透かして小魚が泳いでいた。
「日本海なのね、これが」
「冬には荒れるらしいがね」
「スキーで山は越えるけど海までは知らなかった。夏なら伊豆とかそっちになっ
ちゃう」
 岩礁の端に並んで立って海を見渡し、それから瀬田は思い立ったようにクル
マに戻ってテントを持った。
「テント?」
「ああ、少し眠ろう、ほとんど徹夜だ」
「今夜はここで?」
「いいや、夕方までには常爺さんの家に戻るつもりさ。食い物がレトルトカレー
二袋に飯が二パック。まったく足りん」
 瀬田はちょっと苦笑した。レトルトカレーばかりの旅。それに直火をつくれば風
が出ると危険だし、結局キャンプ用具の世話になる。テントもあのときのままの
二人用。

 ジムニーを停めた土の丘、クルマに寄り添うように設営された小さなテント。
波が上がらない場所であることは地面に生えた下草でわかる。折りたたみのク
ッションマットと一脚だけある布地のチェア、アルコールバーナーが燃え立って
ケトルに湯が沸いていく。カレーとコーヒー。古くさい喫茶店のランチのような取
り合わせ。皿はプラ、白いホーロー引きのスチールカップ。使い捨ての食器は使
わないと決めていた。
「ああ美味しい、このカレー最高!」
「嘘こけ、99円カレーだぞ」
「あははは、いいじゃんそれでも、美味しいんだもんっ」
 楽しい。どんどん女になれていく。夢のような時間だと恵子はときめく。
 小腹を満たしてテントに潜る。平らな土の上。クッションマットを敷いた上にシ
ュラフをひろげて横になる。二人用のテントの中はジムニーよりも狭い。中に入
り込んでネットの窓を全開。海風が抜けて涼しいのだが、それでも汗がにじんで
くる。
 がしかし、そんなことはどうでもよかった。大きな瀬田に寄り添うようになる。
手を出せば抱かれる間合い。ドキドキしていた。けれども、さすがにほとんど徹
夜の後だけに、眸を閉じると眠りに引き込まれてしまうのだった。
 瀬田は気づかい、背を向けて横寝になった。だけど恵子は、そんな背中を見
て横寝。瀬田のサイズにテントが合わない。そう思うと可笑しくなって、笑いなが
ら眸を閉じた。
 うつらうつら・・そうすると瀬田の寝息。恵子はそっと後ろから抱きすがり、そ
のときようやく睡魔がやってくる。雲が出たのか直射が遮られ、吹き抜ける海風
ががぜん涼しく感じられた。

『ねえ抱いて』
 瀬田は夢の中で千早によく似た声を聞いた。

 どのぐらい眠ったのか、恵子はふと眸を開けて、そしたらそのとき、こちら向き
に寝返った瀬田の腕にくるまれて寝入っていた。瀬田はよく眠っている。恵子は
そっと手を回して抱き返し、微笑んで眸を閉じた。
 千早だと思ってる? それでもいいと考えた。

 夕刻前にも早い三時過ぎ、瀬田は老爺の家を訪ね、あのときよりいくぶん窶れ
た感じがした老爺と手を握り合う。やはり思ったとおり、老爺は千早の母が住む
宮本の家を訪ねていた。
 老爺は言った。
「帰りがけに寄ってみたら花がたむけられておってな、瀬田君だと思ったよ。アレ
の母親がいまだにちょっと・・元気づけに行って来た。ほれ、常さんの家の鍵だ。
あれから君がそうしたクラブをやるってことで鍵をかけて掃除してある。布団もあ
るからゆっくりして帰ればいい。家の鍵は二つ。それは君が持ってればいいから
な。わしへの断りなんぞいらんから」
 老爺は力なく言いながら古い鍵を手渡してくれる。あのときの矍鑠とした力感
が失せていて悲しみの深さが思いやられた。
 瀬田はもちろん恵子を紹介し、今後もしかしたら常爺さんの家を使わせてもら
うかもと告げた。取り壊されるに忍びない。できれば残してほしいと思ったし、瑠
美や西浦が集うとき、千早の故郷はぜひとも訪ねてみたいから。
 瀬田は言った。
「僕はまだお会いしないほうがいいですよね?」
 千早の母に。老爺はうなずき、話題を変えようとしてくれる。
「それにしても瑠美の奴めが・・ふふふ、驚いて声もないわ。西浦君と言ったか
な?」
「ああ、はい、西浦ですね」
「近々、二人で行くと連絡があってな。結婚したいと。ふふふ、しかしだよ、相手
がまあ可愛いこと可愛いこと・・信じられん・・ははは、あの魔女め」
 せめてもの笑い。瑠美のことは老爺の新しい希望になる。遠からず孫ができ
るということだ。一日も早くそうなってほしいと願わずにはいられない。

 常爺さんの家。時代物の鍵を差し込み、引き戸を開けて中へ入ると、老爺の
言葉どおり、隅々まで掃除がされて囲炉裏のある板の間が黒光りしていた。夏
の囲炉裏は板を渡して塞いであり、一段高くなってテーブル代わりになってくれ
る。
 恵子は入るなり息をのんで見回した。ここにくらべれば奥秩父の家『瀬田宿』
はまだしも新しい。なのに電気と水道が来ているのはこちらの家。
 台所は似たような三和土になってカマド、その奥に五右衛門風呂とボットン便
所。囲炉裏のある板の間の広間と、その奥に畳の部屋がひとつ。小さく質素な
家だったが、恵子は一目で気に入った。この家に出会い、落ち葉を集めて火を
つくったことは聞いていた。千早の気配も残っていたし、まさしく瀬田宿の原点な
のだと考えた。
 この家にはエアコンがついている。まず先にスイッチを。続いてカマドに火を
入れて夕食の支度にかかる。獲れたての黒鯛を魚屋で買って来た。それさえも
あのときのまま、瀬田は記憶をたどるように包丁を握っていた。ウロコをひいて
三枚におろし、刺身をこしらえ、そうしている間にカマドで飯を炊きながら恵子が
煮物をこしらえる。恵子は包丁を持つ瀬田をはじめて見る。まさかできるなんて
思っていない。
「お魚おろせるんですね、びっくりしちゃう」
「さっきの爺ちゃんに習ったんだ。釣った魚は自分でさばけと言われてね。そこ
までやって釣りなんだと。何もかもがおんぶにだっこ。都会とはそういうものだと
思い知ったよ」
 野菜と鶏肉を恵子が切り分け、時代劇に出てくるような鉄鍋でぐつぐつ煮込む。
味付けは醤油と砂糖。化学調味料なんてここにはなかった。昔ながらのシンプル
な料理ができていき、ご飯はお焦げが混ざった都会の外食では喰えないもの。
囲炉裏を塞いだテーブル代わりの台に並べて、角を挟んだ横に座って箸をつけ
る。囲炉裏は大きく、差し向かいでは遠くなる。

「ああ美味しい・・ほんとに美味しい」
 感動する味。美味いかと問われると、それはともかく、まずご飯の味がまるで
違う。瀬田は言った。
「俺は爺ちゃんの家でご馳走になったんだ。口に入れて殴られたような気分に
なった。美味い。たいしたものでもなかったんだが、声にも出せない味がした。そ
れはね恵ちゃん」
「うん?」
「つくる人の気持ちなのさ。手抜きできない、手抜きをしない、火からつくった料
理の味というもので」
「そうですね、まるで違うと思います」
「うむ違う。そのときさ、これだと思った。あの分校も家もそうだが徹底的に不便
にこだわろうと考えた」
「不便だから工夫は生まれ、そうやってできたものだから感謝する気持ちが生ま
れるわけで・・」
 瀬田はうなずく。
「そういうこと。それまでの俺のテント暮らしなんてレトルトばっかで、所詮は甘ち
ゃんの道楽レベル。疲れたらホテルでは話にならんと思ったときに、よし一度ハマ
へ帰ろうと覚悟が決まった。精算してリスタート。やってやると奮い立った。あいつ
ら二人、それに赤木と再会したのもそんなとき。前向きになったとたんに仲間がで
きたということさ」
 恵子は黙って聞き惚れて、潤む眸で瀬田を見つめていたのだった。熱く語る男
はカッコいい。
 恵子は言った。
「西クンだってそうだと思うわ。そんな瀬田さんを知って奮い立ち、瑠美さんへア
タックした。一念、岩をも通すの覚悟を決めて」

 食べ終わり、瀬田は両膝をパァンと叩いて立ちざまに言った。
「喰ったら風呂だ。もういかん、汗まみれ。さっぱりして、とっとと寝ちまおう。クタ
クタだ」
 恵子は微笑んでうなずいて、食事の後始末にとりかかった。

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