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生と死のレゾナンス 一話

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一話 序章~呪いの使者


 東京、世田谷。九月のなかば。
 このとき時刻は午前十時を過ぎたところ。
 三連休の初日となるその土曜日は、一昨日からの雨もあがり、夏の後ろ姿を
見送るような晴天に恵まれた。陽射しはまばゆく、それでいて風は涼しく秋の気
配。ここは環八と東名高速用賀インターに接する都内有数の緑地公園。周囲を
ぐるりと森と見まがう木立に囲まれた土の広場には、小さな子供たちを遊ばせる
若いママが多くいて、親と子の明るい声が豊かな緑の狭間に漂うように流れて
いた。

 そんな中に、四歳となったばかりの息子とソフトテニスのボールで遊ぶ一人の
母親がいた。男の子は半ズボン、ママはジーンズにスニーカー。亜麻色のロング
ヘアーをポニーテールにまとめている。
 住まいが近くて空いた時間にちょっと出たもの。ほんとなら硬式テニスといきた
いところなのだが、公園で固いボールは危なく、子供もまだ小さいことから、コー
トの外では軟式のボールで遊ばせるようにしていた。遊ばせながらもラケットの
扱いに慣れさせる。母は硬式ラケットを持ち、子供にはジュニアサイズの硬式ラ
ケット。英才教育というわけでもないのだが、軟式のボールだからといって軟式
のラケットでは硬式テニスの練習にはならないものだ。
 ボレーボレー。方向の定まらない息子の打球を母は意のままに子供のフォア
ハンド側へと返球していく。

 母は、旧姓を中條翔子(ちゅうじょう・しょうこ)と言い、元はプロテニスプレーヤ
ー。二十四歳で世界ランカーとなったものの二十八歳のときに膝十字靱帯を断
裂。それで一度、ツアープロからは距離をおいて再起を図ったのだが、およそ二
年のブランクはたやすく克服できるものではなかった。若手の台頭に圧されてし
まうこともある。競技を去り、テニススクールのレッスンプロを経て三十五歳で結
婚、立花姓となった。息子の亮(りょう)は四歳になったばかりだが、翔子はじき
に四十歳。
 唯一無二の我が子だと思っていた。子供は可愛い。結婚がもう少し早ければ
とは考えてもテニスへの夢は捨てきれなかった。楽しそうにボールを追う我が子
を見ていて弟か妹をと考えないでもなかったが、若い頃から子宮内膜症の兆候
があって高齢での妊娠は厳しいだろうと宣告されていたし、私はもう若くないと
思ってしまう。
 息子を健康な子に育てたい。テニスを教え込むつもりもなかったのだが、こうし
て外で遊ばせるとなると、どうしてもラケットを持たせてしまう。忘れきれないテニ
スへの思いを胸に秘め、楽しそうにボールを追う我が子に眸を細める母親だっ
た。

「亮ちゃん、バックいってみよっか」
「うんっ!」
「振り回しちゃダメよ、ラケットで受ける感じでね」
「うんっ、わかったぁ!」
 ラケットに載せて送るように子供のバックハンド側へやさしいボールを打って
やるも子供は空振り。バックハンドは両手になるから、いまのところは苦手のよ
うだ。
 子供の立ち位置をすり抜けたボールが薄い草に覆われた土に跳ねて背後の
草むらへと転がった。子供はちょっと拗ねたように口をひん曲げ、走って取りに
行く。土の広場の周囲は木々の下。落ち葉が重なる林床になっていて子供の膝
ほどまでの下草が生えていた。都が管理する公園は春先から何度か草刈りの
手が入るのだったが、いまは夏でのびた草むらのまま。軟式テニスのボールは
軽く、草に浮くように載っている。探すまでもなくボールは見つかり、木々の下の
草むらから子供は飛び出し、すぐにボールを打ち返す。
 そうやって何度かラリーの続くうち、母親は息子の右のふくらはぎに何か赤黒
いものがついていることに気がついた。

「亮ちゃんストップ、脚に何かついてるよ」
 歩み寄ってしゃがんで見てやると、何やら太く短いミミズのような不気味な生き
物が張り付いていたのだった。
「何よコレ・・亮ちゃんちょっと動かないで」
 指先でつまんで皮膚から剥がそうとするのだが、頭と尻の両方で肌に吸い付
きゴムのようにのびてしまう。長さは四センチほど、体表に縦に赤いスジの入っ
たミミズのようなもの。
「これヒルだわ、きっとそうよ、どうしよう取れない」
 小さな子供は、不安そうな母の姿とふくらはぎに張り付く不気味なものを怖が
って泣いてしまう。
 その声を、たまたま通りすがった学生っぽい二人の男が聞きつけて歩み寄っ
た。二人ともジーパン姿でタウンサイズのナップサックを背負っている。
「どうしました?」
「草むらに入った子供が脚にヘンなものをつけちゃって」
 若者の一人がしゃがんで見つめ、即座に言った。
「ああ、これ山ビルすっね。血を吸うヒルっす」
 母は問うた。
「山ビルって言うの?」
「そうっす、山にいるヒルなんすよ。いま取ってあげますから」
 若者はタバコに火をつけて張り付くヒルを焼くように火種を押しつけてやると、
不気味な生物はもがくように蠢いて、吸い付いた口を離してぽろりと取れた。
「ほら取れた、もう大丈夫だよ、痛くないだろ坊や?」

 子供は安心してちょっと笑う。母はほっとしてため息。
「ありがとう、助かったわ。タバコで取ればいいのね?」
「そうっす、つまんで剥がそうとしても傷口をひろげるだけでかえってマズい。
タバコの火と塩とか」
「塩? お塩でもいいの?」
「イチコロっすよ。ナメクジ状態で死んでしまう。あとはアルコールとかでもいいで
すし」
 母はうなずいた。子供らしい細いふくらはぎの丸い傷から血が流れて白いソッ
クスを痛々しく赤くする。
 それを見ていたもう一人の若者が言った。
「僕ら山でキャンプしますから、こういうことはしょっちゅうなんです。山ビルは気
色悪い生き物だけどヘンな菌とか持ってないから消毒しとけば治りますよ。しば
らく出血すると思いますから傷バンとか張っておけばいいでしょう。どうしても気
になるようならお医者とか行かれてもいいですし」
 タバコに焼かれて落ちたヒルは丸まって、じっとして動かない。しゃがんだ若者
がヒルを凝視して、友だちに向かってぼそりと言った。
「だけどウソだろ、都会のど真ん中なんだぜ、こんなところにいるもんか?」
 もう一人もうなずいて丸まったヒルを覗き込む。
「赤いスジのあるヒルねぇ・・ううむ、確かに言える、なんでこんなところにいるの
か・・」
 丸まって動かないヒルを踏みつぶし、若者は母親の顔を見つめて遠慮がちに
言うのだった。
「あれ・・もしかしてテニスの中條さんですよね?」
 翔子はちょっとうなずいて微笑んだ。現役だった頃、この二人はまだ子供だっ
たはず。そう思うと、あらためて時の流れを感じてしまう。
「知ってるんだね私のこと?」
「もちろん知ってますよ。僕ら高校からテニス部でしたし子供の頃から見てました
もん」
 親切な若者たちとちょっと話し、翔子は亮を連れてその場を離れた。家に戻っ
て手当てをしたい。

 山ビルは、その名のとおり山にはびこる陸生のヒルで、落ち葉の下など湿気の
あるところを好むのだが、山では草陰に潜んでいたり、樹木の枝に這い上がって
いたりして、下を通る動物を狙って木の上から降ってきたりもする。
 細かい牙の並ぶ丸い口で噛みついて皮膚を破り吸血する。しかしそのとき蚊と
同様に麻酔の成分と血を凝固させない成分を併せ持つ体液を出すから痛みもな
く吸血されても気づかないことが多いもの。山を歩いていて、あるとき下着の中に
吸い付くヒルを見つけたりもする。グロテスクで悪魔的なバンパイヤなのだが、い
まのところ感染症の原因となるような菌やウイルスは持っていないとされていた。
 心配することはないと若者たちにも言われていたが、母は念のためにかかりつ
けの町医者のもとへと連れて行く。

 その同じ日の午後三時過ぎ。JR高円寺駅。
 警視庁捜査一課、警部補の平沼剛(ひらぬま・つよし)は、すっきり晴れた空を
見渡しながらも言いようのない思いを隠して駅のホームに立っていた。土曜の今
日は本来非番なのだが、ひと月ほど前に高円寺であった強盗殺人の犯人逮捕
のために昨夜からの勤務。現場処理を終えて八王子の自宅に戻ろうとしていた
ところ。
 都会の週末、平日のような極端なラッシュこそなかったものの駅は慢性的に混
んでいて、平沼がホームに立ったのは前の電車が出たところ。そのとき一瞬人
影がなくなっても次の電車までの五分ほどの間にホームにはふたたび人があふ
れてくる。
 平沼は心が疲れ切っていた。遊ぶ金欲しさに押し入って、たやすく人を殺してし
まう。凶悪犯罪が増えている。駅のホームから無関係な相手を突き落としてみた
り、繁華街で突如として刃物を振り回し多数を死傷させてみたりと、人間の何か
が狂ってきている。犯人逮捕にこぎつけても気分が晴れることはない。正義の番
人でいたいという気持ちはあっても、もういい、逃げたいと思うことが多くなった。
家に戻れば妻と幼い娘がいる。ほっとできる空間はそこにしかないと思えてしま
う。

 先輩刑事だった宗像のことをふと考えた。ここしばらくはとりわけそうで、同じよ
うに気を病んで妻子とも別れ、刑事を辞した男のことを弱いとは思えなくなって
いる。
 俺だって辞めたい。もういい疲れた。普段なら八王子から京王線で通っていた
が、今日は昨夜が泊まり、現場からの直帰だからブルーリバーも覗けない。たま
らない焦燥感に苛まれていた平沼だった。
 前の電車が出たところ。しかるに、ホームへの階段から次々にそれぞれの人
生を背負った人々が上がってくる。明日は休み。月曜日も代休を入れてあるか
ら続けて休み。ひさびさ家族でどこかへ行きたいものだと考えていたのだった。
 と、背後に怪しい気配を感じた。背筋が冷える嫌な感覚が確かにあった。

『・・ふふふ・・ふふふ・・』

 洞穴に響くような、か細い女の笑い声を確かに聞いて、振り向こうとした次の
瞬間、ひらひらした赤い服の一端が視野の端に飛び込んで、ものすごい力で背
を圧されて体が傾き、線路まで泳ぐように落ちていた。突風に突き飛ばされた感
じがする。
 ホームに居合わせた女性たちから悲鳴が上がった。誰もが一斉に注視する中、
転落した平沼はとっさに起き上がって迫り来る電車を視野に入れ、ホームに手
をつき、飛び上がり、ホームのコンクリートに転がった。平沼は剣道三段。その
反射神経がなければはねられていたかも知れない。
 いいや違う。タイミングが違うととっさに思う。殺す気なら電車が近づいてから
圧されるはず。恐怖に背筋が冷えてくる。これは警告だと感じていた。
 そのとき居合わせた人々から安堵の声が上がった。駅員が二人駆け寄って、
事情を話すと警察を呼ぶと言う。平沼自身が刑事だとわかると、そばにいた若
い女性が証言した。赤い服の女を見た。この人を突き落として煙のように消えて
いったと・・。
 赤い服の女は、都市伝説でも語られる女霊の姿なのだが、ここしばらく『アミラ
の呪いを知れ』などと意味不明な言葉を叫んで無関係な人を殺す無差別殺人
が多発していて、赤い服の女すなわち『アミラの呪い』としてネットで急速にひろ
がっていたのだった。
 平沼は駅事務所へ呼ばれて事情を話し、それから携帯電話を手に取った。

 東京、調布。純喫茶ブルーリバー。
 このとき時刻は午後四時だった。
 ブルーリバーは、いまからちょうど一年前に、以前のオーナーから譲り受ける
カタチで宗像拳士(むなかた・けんじ)がはじめた店だった。
 宗像はいま四十一歳。一年前まで警視庁捜査一課で警部を務めた男。調布
は若いときから妻子と暮らした街で、刑事だった頃から仕事帰りに顔を出して
は以前のオーナーと付き合っていたものだ。
 人間の裏を見る職業に疲れ果てた。凄惨な人の死を見たくもない。
 病んだ心のままでは妻子を幸せにできないと思い、三年前に離婚。それでも
刑事を続けていたのだったが、この店の前オーナーが老齢で辞めると言う。そ
れならということで警察を辞して引き継いだということで。
 ブルーリバーは京王線の調布駅から南へ、多摩川へ向けて十分ほど歩いた
裏通りに古くからあるちっぽけな喫茶店。カフェほど洗練されてなく、店の入り
口も手動のドアで、開けるとドアベルがチリンと鳴った。カウンター五席に四人
掛けのテーブル席が四つという小さな店で造りも古く、しかしだから気に入って
通っていた。オーナーは気の好い老爺で、ここへ来ると現代から逃避できる気
分になれた。
 住宅街のはずれというのか、周囲にいくつか会社があって平日にはそれなり
に混んでいても週末の土日となると、どうかすると客足ゼロの時間帯ができて
しまう。この日もそうだ。三時過ぎに一組の客が出たきり、常連の女性客がカウ
ンターに一人残っただけでそのほか空席。バイトのウエイトレスと店主がいて
客がいないこともめずらしくはないのである。

 カウンターの裏に置いた携帯電話がバイブしたのはそんなとき。常連客を交
えてまったりした時間をやりすごしていたのだったが、マスターが携帯電話を
手にしたことで会話が途絶えた。元刑事のマスターの携帯にロクな話が舞い
込んだためしがなかったからだ。
「おぅ平沼か、どした?」
『どしたもこしたもありませんわ、出ましたよ、赤い服の亡霊が』
 電話の声が携帯から漏れていて、客とウエイトレスが眸を合わせて眉を上げ
合う。
「何ぃ、突き落とされた・・おまえがか?」
『たったいま高円寺駅で。今日は別件の犯人確保で出だったんです。現場から
の直帰ですよ。ゾッとする嫌な気配がして振り向いたとたん、後ろからドンです
わ。しかしおかしい』
「おかしいとは?」
『電車はまだ向こうにいてタイミングが違うんです。飛び起きてホームによじ登っ
て助かりました』
「なるほど、警告ってことか?」
『おそらくは。で、宗像さん、真木亜沙美に会えないかと思ったもので。実際見
てしまうと、まさかではすまされなくなってきた』
 宗像はカウンターに座る女性客へと視線を流しつつ言った。
「いや、いまもそれを話してたところでね、友紀さんが来てるんだ。姉さんの方は
相変わらずで戻って来てない」
『奥多摩でしたっけ?』
「そういうことだ。どうかすると電話は通じるから失踪ではないようだが・・ちょっ
と待て」

 マスターは携帯電話に手をかぶせてカウンターの客に言った。
「聞こえたとおりで平沼の奴が襲われた。赤い服の女を奴自身が見たと言って
る。姉さんに会いたいそうだが連絡してみてくれないか」
「それはいいけど平沼さんにお怪我は?」
「ホームからの転落なら生きてりゃ無傷ってところだろ。警告だよこれは」
「わかりました、電話してみます」
 カウンターの女性客は、真木友紀美(まき・ゆきみ)、二十五歳。親しくなって
からは友紀と呼んでいた。
 二年前にあった友紀美を取り巻く不可思議な怪死事件で出会った女性だった
のだが、それを捜査したのが当時警部補だった宗像自身。
 そしてその腹違いの姉が、真木亜沙美(まき・あさみ)と言って三十二歳。二年
前の友紀美がかかわる事件が起きるずっと前から、都市伝説ともなっている赤
い服の女を追いかけていた、いわば心霊ライター。雑誌の記事や著書で、いま
では名を知られる女性であった。

 それはともかく、友紀美のコールに応答はなかった。留守電に切り替わる。姉
への伝言を録音して電話を切った。
 そしてそうやって友紀美が伝言を残す間、宗像はカウンターに背を向けて友紀
美からは距離をとり、返事を待つ平沼に言った。
「いかんな、つながらん。留守電に入れてるから追って連絡があるだろう」
『ですか、わかりました。で、これからいいすか? まだ高円寺ですから、ちょい時
間かかりますけど?』
「もちろんかまわん、無事で何より。深追いするな、マジでヤバイぞ」
 電話を切って、それからしばらく、三人で沈黙し合って声もなかった。

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